昨夜はお仕事で大変お世話になった方のお別れの会に出席させて頂いた。
現代の交通インフラなら四日市から埼玉(の南?)までおよそ3時間で繋がる。
人は必ず死ぬ。
そしてまた新たに生まれ変わる(たぶん)
お別れの会の帰りに思うことは、健康のありがたさ。
次世代の為にやらねばならぬことが山積みと思ってしまう現代。
それにしてもTOKYOには外国人が大量に戻ってきている。
カテゴリー: 家族
自転車
長女がお陰さまで中学に進学した。幸い近所の学校なので自転車通学。
自分:「どんな自転車がイイ?おじいちゃんにお祝いを頂いたので、ご近所の専門店で自転車を買おうと思う」
娘:「お兄ちゃんと一緒でマウンテンバイク!!」
自:「そっか・・・汗」
活発な長女にとってママチャリという選択肢は無かったようだ。何だか嬉しいような・・先々不安なような・・(爆)
卒業式
一昨日、娘の卒業式に参列した。
6年間、大きな怪我や病気もせづに卒業できて本当に良かった。
近頃、幼児を抱いている親御さんや、歩き始めのお子さんと公園などでお弁当を食べるご家族を見てつくづく思う事がある。
子供は”アッ”というまに大きく育つ。
歩くまでも歩き出しても小学校へあがる頃までは子育てが大変かと思うが、その苦労もアッというまに過ぎる。
最近、もう一人子供が欲しいと思う事がある(爆)
この年で子供を授かったら、色々な意味で大変な事もあるかもしれないが、経験がカバーするのではないかと安易に思っている。
娘も二人の男坊主には小さい頃から精一杯の愛情で接してきたが、アッというまに時が流れそのうち巣立っていくのだろう。
娘の幼稚園の卒業ビデオや長男次男の入学ビデオを見ながら、昔を思い出すと妙に涙が溢れてくる。
この先10年時が経つと今、撮影したビデオがまた、懐かしく愛おしいものにかわる。
人生は本当にアッという間に過ぎるものだな・・
スタッフ
弊社のゴットマザー”MAMI”
肩書きは”総務”とあるが、人事、金策、売上管理、業務改善・・ありとあらゆる仕事に携わって頂いている。
「社長が居ないリスクよりも彼女が居ないリスクの方が高い」・・と従業員が声を揃えていう。
嬉しいような悲しいような(爆)でも、ありがたい。
弊社がこの厳しい市況の中で20年近く何とかやりくりできているのは、彼女の存在が本当にデカイ。これはお世辞ではない。
持ち前の”ハッキリ物を言う”性格は時々弊社の幹部ともドンパチやるが、それもこれも仕事に一生懸命だからだ。
彼女の直向きな仕事への情熱を私は心から尊敬している。
いつだったか、こんなニュアンスの言葉を私にかけてくれた。
「いつの日か会社が安定し、社会から必要とされた時、振り返って社長と美味しいお酒を飲むのが私の夢です」
何年たっても、人に泣かされる事があるが、彼女のように献身的に私を支えてくれる人も傍にいる。その為には社会から必要とされる企業に一日も早くならなければならない。
スタッフ
弊社では重要なデータ入力を信頼のおけるパートさんにお願いしている。
単純作業ではあるが、数字や文字など一つの入力ミスも許されないプレッシャーのかかる仕事だ。
この仕事に責任を持ってやって頂いているのがsさん。
すらっとした長身で温厚な性格は他のスタッフからもとても慕われている。
マイカーに愛犬のステッカーを貼るほど犬好きの方だ。
2007年11月に入社以来、sさんには随分と会社を支えて来て頂いたが、今日で少しお別れとなってしまう。
お別れと言っても、もう二度と会えない訳ではないし、又あの素敵な笑顔をきっとみせてくれると信じている。
人は時間の経過と共に変化する。どんどん磨かれて行く人もあれば、その逆もある。
間違いなく、sさんとは互いに成長した姿で合えると確信している。
sさんの明日からの新しい人生にエールを贈りたい。
多謝
誕生日
今日は亡き母の誕生日。
今では悲しみが随分癒えたように思うが、仏壇の前やお墓の前では未だ涙が枯れていない。
天真爛漫な人であったが、子への愛情は人一倍にあった事を今更ながら心に沁みる。
先ほど、生前の友人が花束とお供え物を持ってお参りに来ていただいた。
手前味噌になるが、この世に存在しなくなっても慕われる母の人柄を誇りに思う。
自分も後何年、この世で生きれるか判らないが、あの世へ行ってからも酒の肴にされるような人でありたいと思う。
今日も健康に感謝。
おでん
職業柄、一年の大半を外食で済ますことが多いが、休日に自宅で家族と食事をする時間はとても心地よい。
特にこの時期はアツアツのおでんを囲んでワイワイやるのが最高だ。
我が家の出汁は昆布と薄口醤油なのでどちらかというと関西風の味付けで、貝やタコなどの海の物から練り物、卵、餅巾、練り物、スジなど沢山の具材を放り込んでグツグツやる。
決して上品なおでんではないが、体があたたまり兎に角、お箸もお酒も会話も弾む(笑)
サービス業を生業にし、子供たちが大きく成長した事を考えると、こうして家族全員で食事をする事のありがたさを最近しみじみと感じる。
愛が深ければ深いほど悲しみも深い
私の母は 2010年5月14日 午後2時35分 愛知県のがんセンターにて胃癌のため亡くなりました。
享年69歳でした。
4月末に父から電話があり、母の病状のことを始めて聞きました。
一昨年に大動脈瘤のステンド治療をしたのですが、手術も無事終了していたので母の健康状態に関して全く安心しておりました。
直ぐに治療をお願いしたのですがゴールデンウィークと重なり入院は5月の連休が明けてからとの事。
2010年5月10日に入院した、その日に検査結果の状態が芳しくない事を父と妹から聞きました。
翌、2010年5月11日に急いで病院に向かい主治医の方に自分から状況を聞きました。
「昨日の段階では抗がん剤治療を考えたのですが、がんの進行がとても早く、お母様の体力が著しく弱っているので抗ガン剤治療をやめます。お伝えし難いですがホスピスに移ることをすすめます」
主治医の先生と話をした会議室から母の寝ている病室に向かうまでの心の重さは今でも忘れません。
一生忘れられない辛い告知でした。
数分廊下で呼吸を整え、母には体力をつけてから抗がん剤治療を行うことを告げ、手紙とお守りとお花を渡して帰路につきました。
四谷インターから四日市インターまでどういう風に帰ったかは記憶にありません。
その夜、父と妹の3人で話しあいました。私は人目を気にせず、レストランの席で涙しました。
・母には3ヶ月から半年と言われた余命は伝えない。
・緩和ケアの病院を早急にあたる。
・限られた時間で何がやってやれるか各々考える。
そんな話をレストランが閉店するまで話しました。
翌、2010年5月12日に地元の緩和治療を優先したホスピスの見学に妻と二人で向かいました。
ソーシャルワーカーの方も優しく、暖かい方でとても親切にご案内いただきました。
その夜、電話で家族と病院を移動させるかどうかの議論をしました。
・移動させるという事は余命を悟られるという心配。
・動脈瘤に万一のことがあった場合、愛知県だと界隈に専門医が多いから安心。
・逆に余命を知って限りある時間を悔いなく生きて欲しいと願う気持ちとの葛藤。
いつも陽気な母でしたが、病状の話を聞くときは耳を塞ぐ仕草をしていました。そんな母が意気消沈する事が一番体に負担がかかるという判断で病院を移さず、余命を伝えない事を家族で決断しました。
2010年5月13日、色々な打ち合わせを先延ばしにしていたので、この日は朝から打ち合わせと商談を激しくこなしました。その夜、妹と電話で母の病状を聞くと「体力つけて抗がん剤治療がんばる!」といって食事も進んだとの事。しかし、腹水のせいか息苦しさはあったようです。
2010年5月14日、最愛の母と別れの日が突然やってきました。
この日、私はとても目覚めが悪かった事を覚えています。お昼を過ぎた頃でしょうか、妹からの電話が入りました。嫌な予感が的中。電話の向こうで母が吐血をして苦しんでいる事を聞きました。
実家に戻り、妻を迎えに行き慌しく支度をしている頃、妻の携帯がなりました。
「お母さんは最後まで本当にがんばったよ・・兄ちゃん」
激しく泣く妹の一報を聞き、妻とその場で愕然としました。
2010年5月14日15時頃に無言の母と対面しました。
涙が止まりませんでした。
母の暖かい頬、悴んだ手、そして安らぎの笑顔。
普段気丈な妻もこの時は号泣し、母に向かって色々な事を話していました。
一時間程悲しみに暮れたでしょうか・・
親戚の方が駆けつけて頂き早速葬儀の話が始まりました。
ここからはある意味鮮明に覚えています。どこかにスイッチが入って早く母を家まで連れて帰りたい思いの一心でした。
病院の地下のフロアで焼香をすまし、救命にあたって頂いた先生や看護婦の方から暖かい言葉を頂きました。本当にこの時はありがたく感じました。
特殊車両で自宅に着くと、早速通夜と葬儀の打ち合わせが始まりました。この件はまた時間があれば書こうと思いますが、普段、決断業務に慣れている私にとっては以外に簡単で冷静に事を運べたと思います。中々難しいですが日頃からの準備をおすすめします。
その夜、私は母の隣で寝ました。線香を消してはいけないと思い、数時間ごとに目を覚ましましたが気付くと父親も隣で寝ていました。
私の父も自営業で小さな会社の代表をやっておりますので、その日も仕事で病院には駆けつける事ができませんでした。私の前ではあまり涙を見せませんでした、葬儀の時は泣き崩れておりました。
2010年5月15日に御通夜
2010年5月16日に葬儀となりました。
両日共に大勢の方に駆けつけて頂き本当に感謝しています。喪主として至らない事も沢山ありましたが多くの方に支えられて母をあの世へおくることができました。
こうやって母の事を思いだし、書いている時も胸が苦しくなります。
全ては時間が解決してくれることなのですが、単に時間が過ぎて母を忘れる事はしたくないのです。
私は母を本当に愛していました。一年に数回しか感謝の気持ちを伝える事ができませんでしたが精一杯伝えました。
人は人を愛すれば愛すほど別れの時は悲しみが深い事を改めて思い知りました。
私はこれから母の死を噛み締めながら、母との間で果せなかった事や親子だからこそ素直に聞けなかった事を今日から正していこうと決意しました。
足早に駆け抜けた母の人生は本当に私に素敵な物を残してくれました。
最後の最後に火葬場での母への言葉は父も、妹も、妻も、私も、子供達も、
”ありがとう”の一言でした。
その夜、月の上に光り輝いた金星を愛した母を重ねて家族で偲びました。
この世の人生は有限です。
どれだけ生きたかも大切ですが、どのように生きるかはもっと大切だと思います。
今日も愛と命に感謝して精一杯頑張ろうと思います。
多謝