愛が深ければ深いほど悲しみも深い

私の母は 2010年5月14日 午後2時35分 愛知県のがんセンターにて胃癌のため亡くなりました。
享年69歳でした。
4月末に父から電話があり、母の病状のことを始めて聞きました。
一昨年に大動脈瘤のステンド治療をしたのですが、手術も無事終了していたので母の健康状態に関して全く安心しておりました。
直ぐに治療をお願いしたのですがゴールデンウィークと重なり入院は5月の連休が明けてからとの事。
2010年5月10日に入院した、その日に検査結果の状態が芳しくない事を父と妹から聞きました。
翌、2010年5月11日に急いで病院に向かい主治医の方に自分から状況を聞きました。
「昨日の段階では抗がん剤治療を考えたのですが、がんの進行がとても早く、お母様の体力が著しく弱っているので抗ガン剤治療をやめます。お伝えし難いですがホスピスに移ることをすすめます」
主治医の先生と話をした会議室から母の寝ている病室に向かうまでの心の重さは今でも忘れません。
一生忘れられない辛い告知でした。
数分廊下で呼吸を整え、母には体力をつけてから抗がん剤治療を行うことを告げ、手紙とお守りとお花を渡して帰路につきました。
四谷インターから四日市インターまでどういう風に帰ったかは記憶にありません。
その夜、父と妹の3人で話しあいました。私は人目を気にせず、レストランの席で涙しました。
・母には3ヶ月から半年と言われた余命は伝えない。
・緩和ケアの病院を早急にあたる。
・限られた時間で何がやってやれるか各々考える。
そんな話をレストランが閉店するまで話しました。
翌、2010年5月12日に地元の緩和治療を優先したホスピスの見学に妻と二人で向かいました。
ソーシャルワーカーの方も優しく、暖かい方でとても親切にご案内いただきました。
その夜、電話で家族と病院を移動させるかどうかの議論をしました。
・移動させるという事は余命を悟られるという心配。
・動脈瘤に万一のことがあった場合、愛知県だと界隈に専門医が多いから安心。
・逆に余命を知って限りある時間を悔いなく生きて欲しいと願う気持ちとの葛藤。
いつも陽気な母でしたが、病状の話を聞くときは耳を塞ぐ仕草をしていました。そんな母が意気消沈する事が一番体に負担がかかるという判断で病院を移さず、余命を伝えない事を家族で決断しました。
2010年5月13日、色々な打ち合わせを先延ばしにしていたので、この日は朝から打ち合わせと商談を激しくこなしました。その夜、妹と電話で母の病状を聞くと「体力つけて抗がん剤治療がんばる!」といって食事も進んだとの事。しかし、腹水のせいか息苦しさはあったようです。
2010年5月14日、最愛の母と別れの日が突然やってきました。
この日、私はとても目覚めが悪かった事を覚えています。お昼を過ぎた頃でしょうか、妹からの電話が入りました。嫌な予感が的中。電話の向こうで母が吐血をして苦しんでいる事を聞きました。
実家に戻り、妻を迎えに行き慌しく支度をしている頃、妻の携帯がなりました。
「お母さんは最後まで本当にがんばったよ・・兄ちゃん」
激しく泣く妹の一報を聞き、妻とその場で愕然としました。
2010年5月14日15時頃に無言の母と対面しました。
涙が止まりませんでした。
母の暖かい頬、悴んだ手、そして安らぎの笑顔。
普段気丈な妻もこの時は号泣し、母に向かって色々な事を話していました。
一時間程悲しみに暮れたでしょうか・・
親戚の方が駆けつけて頂き早速葬儀の話が始まりました。
ここからはある意味鮮明に覚えています。どこかにスイッチが入って早く母を家まで連れて帰りたい思いの一心でした。
病院の地下のフロアで焼香をすまし、救命にあたって頂いた先生や看護婦の方から暖かい言葉を頂きました。本当にこの時はありがたく感じました。
特殊車両で自宅に着くと、早速通夜と葬儀の打ち合わせが始まりました。この件はまた時間があれば書こうと思いますが、普段、決断業務に慣れている私にとっては以外に簡単で冷静に事を運べたと思います。中々難しいですが日頃からの準備をおすすめします。
その夜、私は母の隣で寝ました。線香を消してはいけないと思い、数時間ごとに目を覚ましましたが気付くと父親も隣で寝ていました。
私の父も自営業で小さな会社の代表をやっておりますので、その日も仕事で病院には駆けつける事ができませんでした。私の前ではあまり涙を見せませんでした、葬儀の時は泣き崩れておりました。
2010年5月15日に御通夜
2010年5月16日に葬儀となりました。
両日共に大勢の方に駆けつけて頂き本当に感謝しています。喪主として至らない事も沢山ありましたが多くの方に支えられて母をあの世へおくることができました。
こうやって母の事を思いだし、書いている時も胸が苦しくなります。
全ては時間が解決してくれることなのですが、単に時間が過ぎて母を忘れる事はしたくないのです。
私は母を本当に愛していました。一年に数回しか感謝の気持ちを伝える事ができませんでしたが精一杯伝えました。
人は人を愛すれば愛すほど別れの時は悲しみが深い事を改めて思い知りました。
私はこれから母の死を噛み締めながら、母との間で果せなかった事や親子だからこそ素直に聞けなかった事を今日から正していこうと決意しました。
足早に駆け抜けた母の人生は本当に私に素敵な物を残してくれました。
最後の最後に火葬場での母への言葉は父も、妹も、妻も、私も、子供達も、
”ありがとう”の一言でした。
その夜、月の上に光り輝いた金星を愛した母を重ねて家族で偲びました。

この世の人生は有限です。
どれだけ生きたかも大切ですが、どのように生きるかはもっと大切だと思います。
今日も愛と命に感謝して精一杯頑張ろうと思います。



多謝

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